@article{oai:tamagawa.repo.nii.ac.jp:00000056, author = {中山, 剛史}, issue = {52}, journal = {論叢:玉川大学文学部紀要}, month = {Mar}, note = {ヤスパースにおいて「哲学的倫理学」が成り立ちうるとすれば,それはそのつど 歴史的に一回限りの状況のうちに立つ「自己存在」に根ざした〈実存倫理〉という性格をもつものと言えよう。これに対して,カントの倫理学は「汝なすべし」という万人に 普遍妥当的な要求を課す〈普遍倫理〉であると言いうる。本稿では,こうした〈実存倫理〉と〈普遍倫理〉,「法則」の 普遍妥当性と「自己存在」の 歴史的一回性との関係を明らかにしてゆきたい。  まず,われわれはヤスパースの初期の著作『世界観の心理学』(1919)において,カント倫理学における「普遍妥当性」が両義的なものと解釈されていることを指摘する。すなわちそれは,(1)倫理的命法の「形式」の普遍妥当性と,(2)倫理的命法の「内実」の普遍妥当性である。それに続いて,われわれはヤスパースの主著『哲学』(1932)の第二巻『実存開明』に目を向けるが,ここでは,「法則の自由」と「実存的自由」とを明確に対比させる。「実存的自由」は歴史的一回性において「かくなさざるをえない」という 内的必然に従うものであり,それは実存の「無制約的行為」と深く結びついている。上記の二つの自由の関係には,次のような二つの様相がある。一つは①実存の無制約性が「 法則」 や「 当為」 と本来的な自己存在との一致によって実現される場合,二つ目は②実存の無制約性が普遍的に固定化された「法則」を 突破することによって,実現される場合である。後者は,「 実存的な当為」の意識をもって,普遍的な倫理的法則を突破する「例外者」の場合である。しかし,ここにもかろうじて当為の「形式」という意味での 普遍性の契機は残っている。とはいえ,ここで真に重要となるのは,「普遍妥当性」という尺度よりも,むしろ〈歴史的一回性における永遠性〉という新たな尺度であろう。それは「汝はこのことを永遠に欲しうるか?」というニーチェ的な問いに表わされるものであろう。}, pages = {141--163}, title = {ヤスパースにおける〈実存倫理〉の問題:「法則」の普遍妥当性と「自己存在」の歴史的一回性}, volume = {2011}, year = {2012} }