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  1. 学部
  2. 教育学部
  3. 論叢:玉川大学教育学部紀要
  4. 2012

「ディルク・シナ」と日本

http://hdl.handle.net/11078/75
http://hdl.handle.net/11078/75
f04e9939-9bcd-47c7-9434-2a8d3b550f81
名前 / ファイル ライセンス アクション
5_2012_103-119.pdf 5_2012_103-119.pdf (979.8 kB)
Item type 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1)
公開日 2013-10-10
タイトル
タイトル 「ディルク・シナ」と日本
言語 ja
言語
言語 jpn
キーワード
主題 ディルク・ヘリッツゾーン・ポンプ
キーワード
主題 ウィリアム・アダムズ
キーワード
主題 日欧交渉
キーワード
主題 近世初期
資源タイプ
資源タイプ departmental bulletin paper
英訳タイトル
その他のタイトル ‘Dirck China’ and Japan
著者 森, 良和

× 森, 良和

森, 良和

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抄録
内容記述タイプ Abstract
内容記述 ディルク・ヘリッツゾーン・ポンプは「初めて日本に来たオランダ人」であり,豊臣秀吉の天下統一以前の1580年代に長崎に来航した。エンクハイゼンに生まれ,リスボンで青少年期を送ったディルクは,インドのゴアに20年滞在し砲手として生計を立てた。その間に二度中国と日本を訪問した。1590年に故郷に帰還したディルクは,オランダ人に日本や中国の素晴らしさを盛んに伝えたため「ディルク・シナ」の渾名がついた。東インド情勢に明るいディルクは,1598年,東洋遠征船隊の一員としてウィリアム・アダムズらとともにオランダを出帆し,自らは南米でスペイン人の捕虜となったものの,アダムズらリーフデ号の日本来航を促した。その後解放されて再度故郷に戻ったディルクは,2年後には東インド会社の船団で最後の航海に出た。一般にはあまり知られてないディルクであるが,日欧交渉史に少なからず影響を及ぼしている。本稿では従来断片的にしか述べられなかったその生涯と人物像,および歴史的に果たした役割について考察した。
書誌情報 論叢:玉川大学教育学部紀要

巻 2012, p. 103-119, 発行日 2013-03-31
ISSN
収録物識別子タイプ ISSN
収録物識別子 1348-3331
著者版フラグ
出版者
出版者 玉川大学
言語 ja
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